死に至る病

面白いこと何も言えません

アパシーゴルファー

 6歳の頃、僕は父親の薦めでゴルフを始めた。これだけ言うと勘違いする人が多く、「ええとこの子なんやな」と、僕の育ちを過大に捉えられたことは一度や二度ではないが、そんなことはない。むしろ、我が家は決して裕福な方ではなかった。貧乏でもゴルフはできるのだ。

 

 とはいえ、父親の僕に対する期待と熱の入れようは半端ではなく、彼自身もまた、ゴルフというスポーツに心酔しているように思われた。親の心子知らずと言うが、父親のその期待や熱といったものは、当時大いに感じられた。こうしてゴルフクラブを握った僕は、二年目にはJGA (Japan  Golf Associats)の門戸を叩き、ジュニアゴルフ選手としての道をひた走ることになる。

 僕は県下でそこそこの強さを誇り、数々の表彰を受けた。それくらい、練習に明け暮れた。そして、ゴルフというスポーツと、その選手である自分を、僕はこの上なく嫌いだった。

 

 僕は現役を引退するまで、トレーニングをしない日はなかったが、それは強くなりたかったからではない。強くなりたいと、思ったこともない。だが、怖い怖い父親やコーチ陣に、「強くなりたくないのか」と怒号を飛ばされると、「いえ、強くなりたいです」と言う他無かった。どのスポーツもそうだとおもうが、ゴルフは精神力がモノを言う。僕は、練習場や自宅やジムで行うトレーニングも嫌いであったが、実践練習や試合のように、実際にコースをラウンドするのは尚更に苦悩した。

 自然環境の影響を多分に受ける状況下でプレーするゴルフは、集中すれば事の他体力を消耗する。芝目、風速、地形、傾斜、距離、天候、焦り...。全ての要素が僕を苦しめた。そして広大なコースを、重いゴルフバッグを担いで、一日かけてラウンドする。また、ゴルフというスポーツは結構エチケットや礼節にうるさいので、あまり素の自分ではいられない。それも煩わしい事この上なかった。今でこそ趣味として楽しめるようになったが、その頃はまさに苦悩の種でしかなかった。なまじ実力が伴っていただけに、予選を通過した時なども、ああ、また試合の予定ができてしまった...と、それを嬉しく思う気持ちなど微塵も無かった。僕を取り巻く環境が、努力が、全てが無意味に思えた。このスポーツさえしなければ...とすら思った。

 僕はスポーツニッポン主催の試合に、毎年出場していた。その試合は関西ブロックの予選を経て本選に進む、いわば全国へのキップとなる大会だったが、僕は全く楽しみにはしていなかった。試合の翌日のスポーツニッポンの紙面には予選通過メンバーが掲載され、予選を通れば親がスポーツニッポンを買うので、それをこっそり持ち出しスポーツ新聞特有のエロページを読むことだけが僕のやりがいだった。

 通常、ゴルフは数人のグループでラウンドする。その年の予選で一緒になった内の一人は、小学生ながらとんでもない体躯をしており、プレーも豪快そのもので、とんでもなく上手かった。そして彼は、公式戦であるにも関わらず、スコアラー(不正をしないか監視する役員)が見ていないのをいいことに、全ての指の間にタバコをはさみ、一度に4本のタバコを吸いながらプレーする通称「妖怪ニコチンコ」だった。彼はめちゃくちゃなプレーだが、心底楽しそうにゴルフをしており、僕はなんだかモヤモヤした。そして彼も僕も予選を通り、僕は無事、スポニチのエロページを拝むことができた。

 

 

 ある日、僕は三重県まで遠征に来ていて、次の日は近くで女子プロの試合があるというので、それを観戦するという日程だった。僕はあまり乗り気でなかったが、プロの試合を観るのはそうそうあることでは無かったので、少しは楽しみだったかも知れない。

 当時、女子プロ界は宮里藍選手や横峯さくら選手が規格外の強さで、様々なタイトルを獲っていた。僕は横峯さくらを観戦していて、なんでこの人はゴルフしてるんだろなと思ったりしていた。そうこうしてる間に試合は終わり、誰が優勝したのかすらも知らなかった僕は、遠征チームから離れ、もうすでに人が減って夕日の差し込むクラブハウスに居た。展望レストランからの景色を、綺麗だなあと思うのにも飽きてきたので、少し探検することにした。案の定迷子になった僕は、とりあえず外に出ようと、ロビーの裏口のようなところから外に出た。

 そこにはカート道と芝生があるだけで、人もあまりいない場所だった。

 僕は目を疑った。宮里藍が目の前に居た。キャディと何か話している。何故こんなところに、と僕は考えるより先に宮里選手に駆け寄り、なんと声をかけたかは覚えていないが、おおかたサイン下さいとでも言っただろう。

 彼女は少ししゃくれたアゴで気さくに、「ゴルフやってるの?」と僕にきいた。はい、やってますと僕は答えた。「そっかぁ、楽しいよね、ゴルフ」と言った。僕は、少しどきっとした。そして彼女は、「これ、さっきまで使ってたボール」と言って、A☆Iと書かれたボールを僕に手渡した。その後のことはよく覚えていないが、数分話した気もするし、もっと短い間だったかも知れない。

 そしてメンバーのもとに帰った僕のポロシャツには、大きく彼女のサインが踊っていた。それから何年か経って、僕は選手であることを辞めた。

 

 そして、宮里藍と話したあの日ほど、「好きこそものの上手なれ」という言葉の意味を、深く噛み締めた日は無かった。


f:id:yuki-g-freak:20180223004520j:image